エクストリームカム トイザらス, 記事内容の実施は、ご自身の責任のもと、安全性・有用性を考慮の上、ご利用ください。, 公務員総研が主催の、日本で働く「公務員」をテーマにした「川柳」を募集し、世に発信する企画です。, 現代も国家同士の間に存在する、支配されたり支配したり、利益を搾取したり搾取されたり、という構図。力による戦争とは別のルールで今もなお続いている、「新植民地主義政策」ともいえる、経済的な争いについて、解説します。, 公務員総研の編集部です。公務員の方、公務員を目指す方、公務員を応援する方のチカラになれるよう活動してまいります。. あの頃 君を追いかけた(2018 あらすじ), アフリカ諸国が独立を果たした現在では、アフリカ植民地は遠い過去の出来事にも思えます。ですが、アフリカ諸国の貧困や紛争など、アフリカ植民地の爪跡は現代の世界にも大きな影響を与えているといえます。 イオン茨木 無印, アフリカに残るヨーロッパによる植民地支配の影響は? 現在は独立したといっても、かなりの期間支配されていたので、多くのアフリカ諸国は現在でも旧宗主国の影響を強く受けています。 第一次世界大戦以降のアフリカ諸国の宗主国はこのようになっています。 旧宗主国. カツ丼 池袋, デビットリーロス パラダイス, 芦名 星, 商学研究第49巻第2号 論文 要旨 アフリカ経済の構造と開発政策 岩城剛 日次 1 .アフリカ社会経済の植民地構造~その二重構造の形成 II. アフリカは植民地支配を受けていました。 多くの黒人が奴隷としてヨーロッパに連れて行かれたこともあったのです。 現在でも植民地支配の影響が残っているということも、しっかり覚えておきましょう。 【ホンシェルジュ】 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ列強による「アフリカ分割」がおこなわれました。どのような背景があったのでしょうか。この記事では、分割がおこなわれた理由や各国の紛争、影響などをわかりやすく解説していきます。 戒厳令 英語, 農村総合開発計画(rural integrated development plan) 3 工業化政策~輸入代替工業化(importsubtitution) 特にアフリカでは多くの国が独立しようとしている頃でしたので、その脱植民地化は非常に複雑になっていくのです。 吉野彰 名城大学, アフリカの文化財について、専門家は「ほとんどがアフリカの外にあり、アフリカには何もない」と指摘する。 2019年11月、その植民地時代に収奪されたアフリカ文化財をめぐって、いくつかの動きがあった。 フランスはセネガルにサーベルを返還 銀魂 鬼兵隊 死亡, 検察庁 呼び出し 飲酒, イオン 映画上映スケジュール, キングダム てん, 橋本誠也 大学, スタン リー 名言, 茶屋 イオン アマノ, ドローンレース 練習機, 東北アルフレッサ 秋田, このアフリカで着実に影響力を強めているのが中国で、アフリカの国々に対して巨額の投資やインフラ援助を行っています。これによりアフリカを「世界の工場」と呼ばれる巨大な生産能力を持つ中国で製造された安価な商品の供給先とし、また見返りとして資源の供給を受けているのです。 � イオン 茶屋 ラウンジ, アフリカは植民地支配を受けていました。 多くの黒人が奴隷としてヨーロッパに連れて行かれたこともあったのです。 現在でも植民地支配の影響が残っているということも、しっかり覚えておきましょう。 航空法とは 不動産, 人類発祥の地であるアフリカは豊かな自然と天然資源に恵まれていますが、世界の中で最も多くの武力紛争が発生している地域でもあります。アフリカの内戦は現在どうなっているのでしょうか。アフリカの内戦の原因と歴史について調べました。 羽生 結 弦 オリンピック ショート, 島崎遥香 出演, 家計調査 可処分所得 推移, それを防ぐためにヨーロッパ諸国の首脳は 1885 年に開かれたベルリン会議でアフリカの植民地化にかかる原則を確認、合意し、それを契機にヨーロッパ諸国によるアフリカ分割が本格化した。そして現在のナイジェリアにあたる領土は公式にイギリスの植民地となったのである。 冷戦はアフリカに対して直接影響を与えたわけではありませんが、少なからずアフリカに影響が与えられていると考えられます。 . マララ 本 小学生, 土村芳 3年a組, 名古屋市 給付金, あまちゃん 相関図, スラップ ギター 演奏, ノーベル平和賞 マララ 名言, プライムツリー Paypay, マイケルジャクソン 来日 2007, 植地は1808年 にイギリスの直轄植民地となり,その支 配圏は現在のシエラレオネの首都フリータウンとそれを 含む半島部,さ らには周辺の諸島へと拡大した。他方, 1896年にはシエラレオネ植民地の背後に広 … プロポーズ 例, みなさん、こんにちは。今回は帝国主義とアフリカの植民地を取り上げます。今回の話は、1884年にベルリン会議が行われ「アフリカは先に支配した国のものとする」と言うアフリカ分割のルールの決定から話が始まります。ベルリン会議のアフリカ分割のルール 単身世帯 増加 理由, 2020年1月15日、アフリカで最大の人口、経済規模を有するナイジェリアで発生したビアフラ(Biafra)戦争の終焉から50年が経過した。世界ではほぼ忘れ去られたとも言えるこの戦争だが、大規模な飢餓が起こり、推定死者数は最大300万人にのぼるとされている。こ ラズベリー パイ と ドローンを つなげる, フグイノベーション ドローン, 2.植民地経験 アフリカとヨーロッパの関係を考えるとき、植 民地経験は避けて通れない問題である。先の例で いえば、フランスはコンゴ共和国とガボンを植民 地化し、チュニジアを保護領に置いた。保護領と いっても、実質的には植民地である。 Save my name, email, and website in this browser for the next time I comment. ... アフリカに残るヨーロッパによる植民地支配の影響は? 現在は独立したといっても、かなりの期間支配されていたので、多くのアフリカ諸国は現在でも旧宗主国の影響を強く受けています。 6位:フランス(約2.5兆ドル) なにわ男子 性格悪い, 松本穂香 趣味, 19世紀までにヨーロッパ列強によるアフリカ分割が進み、植民地とされていたアフリカ各地で、第二次世界大戦後に独立運動が活発になり、1960年前後に一斉に独立を達成した。 ピアノ コンチェルト 第 2 番 ラフマニノフ, 独立したと言っても長年宗主国に支配されてきたため、影響が残ります。 例えば言語、宗教、混血、内戦 旧宗主国を理解していれば、以前植民地だった独立国家の特徴が理解できます。 アフリカの旧宗主国. 19世紀までにヨーロッパ列強によるアフリカ分割が進み、植民地とされていたアフリカ各地で、第二次世界大戦後に独立運動が活発になり、1960年前後に一斉に独立を達成した。 フランス植民地期西アフリカにおける初期植民地教育 ―ジャン・ダールと相互教授法に焦点をあてて―(谷口) 1 はじめに 現在の西アフリカ一帯の多くは,「仏領西アフリカ」(Afrique Occidentale Française: 1895 年-1958 ... 識・志向に何らかの影響を与えた … 松永莉子 遺体, Tohoシネマズ ポップコーン 持ち帰り, 植民地(しょくみんち、殖民地とも)とは、国外に移住者が移り住み、当事国政府の支配下にある領土のことで統治領(とうちりょう)とも呼ばれる。, 古代史にはフェニキアや古代ギリシアにも見られるが多くは植民元との関係は維持しつつ独立した体制となっており、侵略によって獲得した海外領土の類型は古代ローマに見られる。近年はヴェネチアなどが行った東地中海における植民地経営をそれ以降の植民地支配と連続した流れと考える向きもある。, 本項では16世紀に始まるいわゆる「大航海時代」以降ヨーロッパ各国が侵略によって獲得した海外領土を主として扱う。近現代においては、本国政府の憲法や諸法令が原則として施行されず、本国と異なる法的地位にあり、本国に従属する領土を植民地という。, また、植民地に対して従属させて、それらを所有している本国のことは「宗主国」と呼ばれる。, 英語の「colony」の語幹「col-」はラテン語「colere」に由来し「耕す」意。cult-も同意でculturで「耕作」「教養」。, 日本での植民・移民の研究は明治中後期の頃であり1898年(明治31年)には木村亮吉により『於東洋英国植民政策』(ヂヨゼフ・ジヱレイベール fr:Joseph Chailley著)が翻訳出版されている。但し「西欧列強による有色人種の奴隷化」については近代以前から認知されており、豊臣秀吉の時代にすでにポルトガル人による奴隷売買が知られており、バテレン追放令の原因のひとつに挙げられることがある。幕末においてもアヘン戦争敗北による中国人の奴隷化が知られていた。明治政府は開国以来、外国人の関係する「人権問題」に否応なく巻き込まれるようになった[注 1]。, 古代にも植民地はある[注 2]が、「植民地」の規模をそれまでにないほど拡大させたのは近代西欧諸国の産業資本主義の資源収奪要請による。, 一般に帝国主義的先進国が植民地を原料工場・市場として経営するとともに、住民を政治・文化・言語的に抑圧支配する。植民地を獲得する過程では、ほとんどのケースで在来住民との軍事的な衝突が起こり、その全殺戮にいたることもある。スペインによるアメリカ大陸の植民地化やイギリスによるアメリカ大陸の植民地化の過程ではしばしば現地住民が激減し、フランスもカリブ海西インド諸島のマルティニーク島の原住民を1658年に殲滅し、純粋な島民は絶滅した[2]。南太平洋の島嶼部では労働者として現地住民を雇用しても失敗するのが定説であった。白人と接触以降に現地人人口が激減することも多く(ハワイやフィジー、サモアなど)、他の領土から労働者を移住させざるをえない状況が頻発した[3]。, 現地住民との混血や本国国籍人の現地での浮浪化などは、しばしば民政や法的な問題を発生させた。アヘンや覚醒剤ビジネスは植民地経済に根付くことが多かった。, 植民地を獲得したあとは、その植民地を統治・経営(植民地経営)することになる。その過程を植民地化という。, 1804年、フランス革命に触発されたハイチが非白人国家としては近代史上はじめて独立して以来、旧植民地諸国は現在にいたるまで数多く独立していった。ただし先進国が独立を認めた背景には、世界経済システムの変容があるといわれる[注 3]。こうした一連の過程を脱植民地化という。, 一般的に植民地統治が継続する中で1.あるいは2.から4.までの変遷をたどるケースが多いが、植民地が本国に隣接している場合、最終的に本国領土の一部として編入され、その過程で先住民も同化が進み、固有の言語や文化、民族意識を喪失していく傾向にある。, 植民地における主権は領有国が有するが、領有国の主権がより限定された租借地や租界のまま統治が継続されるケースもある。また、特殊な形態として保護国、複数国による共同統治領、国連の委任統治領や信託統治領などがある。, 主権のある未文明国に関しては共有、行政占領、租借、割譲という概念で領土獲得を行い、そうでない場合はもっとも露骨な領土獲得の根拠として「無主物先占」の法理が利用された[4]。, 帝国主義の時代、植民地では本国とは異なった法律が施行、あるいは便宜の規定のみが施行され、先住民には国籍や市民権が与えられなかったり、国籍を与えても「属領籍」「外地籍」「海外籍」のように本国人とは異なる法的身分に編入され、権利義務について不平等な取扱がなされた(イギリス国民や本項の日本の植民地を参照)。, ただし、植民地人が本国人と同様の公職に就くことが必ずしも不可能であったわけではなく、官公庁や軍隊において高官に登用され、あるいは本国議会に選出される例もあった。このような傾向は、同化主義を建前とする日本やフランスの植民地に特に強かった。イギリスの海外領土とアメリカ合衆国の海外領土の住民には現在も本国の公職(大統領、国会議員)選挙への投票が認められていない。海外領土出身であっても本国に移住すれば可能である。これに対しフランスの海外県の住民はフランス内地の県の住民と同様に公職選挙への参加が可能である。これは、自治主義、分離主義と同化主義、内地延長主義という植民地統治思想の違いのなごりと見ることができる。, 立法権は本国政府が任命した総督等の行政長官が掌握することが多かった。多くの場合、植民地の議会は設置されても諮問機関にとどまり、立法権が与えられたとしても、総督等の拒否権が伴うのが通例であった。また、本国の法令の効果は原則的には植民地には及ばないこととされていることが多く、植民地に本国法を適用するためには、植民地政府が別途その旨の法令を制定する必要があった。, 行政職員にどの程度現地人を採用するかは植民地によって異なるが、官庁窓口の係員、下級警察官、教員など現地人と直に接する業務従事者には現地人が配置されることが多かった。これは現地語の理解や人員の確保などさまざまな要因があったと考えられるが、結果として現地人の敵意が直接宗主国に向かれるのを回避する効果が期待された。また、植民地人同士の対立を煽ることによって統治を円滑にすすめるため、宗主国に融和的な民族や部族の出身者を優先的に公務員に採用することも行われていた。, 多くの植民地では、宗教的な理由などから、本国人と現地人に別個の法体系が適用されていた。, 現代においても事実上の植民地を保有する国は多いが、第二次世界大戦以降は各地の植民地で独立運動が盛んになったり、1960年の国際連合総会における植民地独立付与宣言の決議で、植民地という存在そのものが国際的に否定されたことから、客観的に見て植民地と言いうる実態を有している地域であっても、先住民に本国民と対等の権利を与えて海外領土や自治領などという言い換えをすることが多い。, 逆に、客観的に見て植民地と言い難い地域であっても、住民が領有国の統治に不満を持っている場合、領有国を攻撃するための政治的スローガンとして使われることもある。例えばフランス領コルシカ島の分離主義者は同島がフランスの植民地であると主張している。旧東ドイツ住民の中には、「西ドイツの植民地支配を受けている」と主張する人もいる[要出典]。, 少数民族の居住地域で、独立運動や市民的自由の抑圧、資源の収奪等の過酷な統治が行われているが、従来の植民地の定義は満たさない地域を、過去の歴史上の植民地との類推から「植民地」と呼ぶこともある。, 旧ソ連・ロシアのアジア地域や中華人民共和国のチベット自治区・新疆ウイグル自治区などはこのような文脈で植民地と言われることがある。このような地域を講学上内国植民地と呼ぶことがある。, 明治時代における日本の沖縄(琉球処分)や北海道(旧令制国)も講学上の内国植民地に相当する。, 形式的には独立国として取り扱われていても、内政・軍事両面で外国の圧倒的な影響下に置かれている国家は植民地あるいは植民地同然と形容されることが多い。日本にとっての旧満州国(現在の中国東北部)や旧ソ連の衛星国(現在のモンゴル国、東欧諸国)などがこの典型である。, かつては法的にも道義的にも問題ないとするのが常識であったが、現代においては1960年に国際連合総会で決議された植民地独立付与宣言などに見られるように、植民地支配は被害、搾取の時代として否定されるのが世界的傾向である。, 旧宗主国側では、近代化という恩恵を後進地域にもたらした善行であるという評価がなされる場合もある。一方で、「部外者による発展」より「民族の独立」そのものに重きを置く価値観から、こうした「恩恵説」に対する反発も存在する。また、植民地支配の便宜を図るための共同体の解体や文化の破壊、言語の空白化を重視する思潮もある(ポストコロニアリズム参照)。, マルコ・ポーロの『東方見聞録』、羅針盤の伝播、香辛料への渇望によりヨーロッパ諸国の東洋に対する関心が高まった。1477年には、クリストファー・コロンブスが大西洋の先の知識を求め、アイスランドへ赴いた。, ポルトガルとスペインはイベリア半島におけるイスラーム勢力に対する国土回復運動であるレコンキスタを達成した後、大航海時代の先頭を切って海外に進出した。スペインはコロンブスの新大陸発見後、中米のメキシコ、南米のペルーを中心とする大領土を獲得し、さらに太平洋を横断してフィリピン諸島の領有にも成功した。, ポルトガル海上帝国とスペイン帝国の領域を分別したのは、1494年にローマ教皇アレクサンドル6世が定めたトルデシリャス条約である。大西洋上に西経46度の子午線を引き、東をポルトガル、西をスペインの領土とした。このため南米大陸では、ブラジルのみがポルトガル領となった。1529年のサラゴサ条約では現在のインドネシアにあたるモルッカ諸島の東297.5リーグ(ニューギニア島中央部に相当する東経144度30分)を境に、東がスペイン、西がポルトガルの領土とされた。この2つの条約の結果、世界はポルトガルとスペインによって分割された。, ポルトガルは1418年からエンリケ航海王子の下でアフリカ西海岸の探検を続けていたが、1488年に喜望峰を発見すると、東洋における香料貿易の独占をめざしてインド洋に進出した。1500年にはカブラルがブラジルを発見。1511年のマラッカの領有後はマカオ、長崎にまで貿易圏を広げ、一時は日本のキリスト教布教にも成功した。しかしながら、1580年にアヴィス家が断絶するとスペイン王フェリペ2世がポルトガル王となり、事実上スペインの支配下に置かれた。17世紀に入り、1640年には独立を回復するも(ポルトガル王政復古戦争)、アジアで新しく参入したオランダやイギリスとの競合に破れると、南米ブラジルの植民に注力する。その後、ナポレオン戦争に際してブラジル植民地(英語版)はブラジル帝国として植民地から離脱、さらに、第二次世界大戦後、ポルトガルはインドのゴアにあった植民地からインドの独立後に撤退し、アフリカのアンゴラやモザンビークなどの植民地も1970年代に独立した。1999年にはマカオを中華人民共和国に返還している。, スペインは1521年のコルテスによるアステカ帝国征服、1533年のピサロによるインカ帝国征服により、16世紀から19世紀初頭に至るまで北米南西部からブラジルを除く南米全体に及ぶ大植民地を維持したが(上記のとおり、1580年から1640年にかけては、ポルトガル及びその植民地すらスペイン王の支配下にあった)、イギリス帝国の勃興や王朝交代によりその支配力は弱体化した。1810年に至り現地生まれのクリオーリョは、ナポレオンのスペイン侵攻に乗じて、植民地当局に対して独立を試み、その後15年にわたる攻防により独立を勝ち取る。この結果、スペインが南北アメリカ大陸に維持できた植民地はカリブ海のキューバとプエルトリコだけとなった。さらに、スペインは1898年の米西戦争でキューバとフィリピンを失う。1975年にはアフリカに残っていた西サハラからも撤退した。現在、アフリカ大陸にセウタ及びメリリャを有しているが、自治権や国政参加権は本土と対等であり、スペイン政府は、植民地ではなく飛地領と位置づけている。, イギリスの最初の植民地は、イングランドが中世以来入植を繰り返してきたアイルランドといえるだろう。その後は大航海時代の波に乗って北アメリカ大陸へ進出し、17世紀から18世紀にかけてニューイングランド植民地(13植民地)を形成、さらに当初は交易を目的として東洋に渡った東インド会社がインドの諸勢力を巧みに操ってインドを征服。七年戦争ではフランスと争い、その結果イギリスはカナダを獲得、インドからはフランス勢力をほとんど駆逐した。, やがて19世紀始めのナポレオン戦争に勝利したイギリスは、世界の海の覇権を握り大英帝国を建設することとなり、東南アジアのビルマと海峡植民地(後のマレーシア)、中国の香港、流刑植民地として出発したオーストラリアとニュージーランド、アフリカではナイジェリア、南アフリカ(現在の南アフリカ共和国)、南アメリカ大陸のフォークランド諸島などを植民地とした。イギリスはまたスペイン・ポルトガルから独立後の南米諸国やオスマン帝国から独立した中近東諸国にも大きな影響力を持っていたが、これらの植民地は第二次世界大戦後、民族自決の波に乗って次々に独立していった。また、1997年には香港を中華人民共和国に返還している(一国二制度参照)。, ただし、現在でもケイマン諸島、ヴァージン諸島、バミューダ諸島などのカリブ海や大西洋の島々、フォークランド諸島、ジブラルタルなどを海外領土として保有している。, フランスは当初、カナダのケベックとカリブ海のマルティニーク島、グアドループ島に入植したが、七年戦争でイギリスに敗れ、カナダを放棄した。西アフリカのセネガルも古くからのフランス植民地であった。19世紀になってイスラム圏であるアルジェリアと東洋の仏領インドシナ、南太平洋の仏領ポリネシアのタヒチやニューカレドニアなどの植民地化に成功した。これらの植民地も第二次世界大戦後民族独立の波に乗って次々に独立していった。なおタヒチでは、1990年代フランス政府の核実験に反発した地元住民を中心とした解放機構が、植民地支配からの独立を訴えたが、大統領のジャック・シラクは「タヒチはフランスの一部である」と言明し核実験を実行、現在も独立闘争が続いている。, オランダも17世紀から18世紀にかけて帝国主義的な植民地大国としてオランダ海上帝国と呼ばれる。特に17世紀前半はオランダの黄金時代であった。20世紀に入っても東インド植民地(蘭印、インドネシア)や南アメリカの植民地(スリナム)を支配していた。しかし度重なる英蘭戦争で北米の植民地を奪われ、更に南アフリカの植民地も超大国に成長したイギリス帝国に敗れ失うなど、列強としてのオランダの国際的地位は凋落して行った。, 20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われたが、現在でもカリブ海にキュラソー、アルバの二つの海外領土を持っている。, ロシア帝国は16世紀、モスクワ大公国がキプチャク汗国から自立し、周囲のスラヴ人の国々を飲み込んでその領土を広げた。16世紀にロシア平原を統一してロシア帝国を成立させると、東へと征服をすすめ、18世紀頃までにはシベリアをほぼ征服した。シベリアの遊牧民を支配下に組み込み勢力を広げた。シベリア制圧を終えると進路は南へ変わり、中央アジアの多くの汗国を侵略、植民地化した。さらにシベリアの南に広がる清とぶつかり、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって国境を定めたが、19世紀に清が弱体化すると、アヘン戦争やアロー号事件に乗じ、満州のアムール川以北と沿海州(外満州)を次々に併合、植民地化した。, 東方の併合が一段落すると、続いて中央アジアを武力併合、バルカン半島へ進出し、オスマン帝国と幾度も衝突した(南下政策、汎スラヴ主義)。領土拡張主義は日露戦争や第一次世界大戦によって日本、ドイツなどと衝突し合ったが、第一次大戦中に共産主義信奉者によるロシア革命が起こってロシア帝国は滅亡した。拡大した領土はそのままソビエト社会主義共和国連邦に引き継がれ、中央アジア、南コーカサス、非ロシア・スラヴ地域は構成共和国として連邦に加盟し、それ以外はロシア共和国領となった。1941年にはバルト三国を、併合した。, また、第二次世界大戦後に、東欧諸国を中心としてソ連の影響下に置かれた社会主義国も、名目上独立国であるが、衛星国と呼ばれ、植民地的な側面も見られる。冷戦終結とその後の混乱でソ連が崩壊すると、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)を除く旧ソ連構成国は独立国家共同体(CIS)を結成して独立し、ロシア連邦内にとどまったシベリア、極東ロシアでも、多くの地域が共和国を構成して自治が行われている。また、東欧諸国でも、ソ連の指導下にあった一党独裁体制が崩壊し、その勢力圏から離脱することになった。, これらの地域のうち、台湾、南樺太、朝鮮は日本の領土であったのに対して関東州と南洋群島は領土ではなかった。しかし、いずれも日本の統治権が及ぶ地域であり外地と総称された。さらに、日本の影響下にあった満州国(1932年建国)も、事実上の植民地に相当する。, ただし、南樺太に関しては統治の初期より準内地的に扱われた。各地域の法令の適用範囲の確定等が目的の共通法(1918年制定)では内地の一部として扱われた。1943年4月には完全に内地に編入。, なお、内地の沖縄(大東諸島、尖閣諸島を含む)、奄美群島、北海道、東北地方、小笠原諸島も植民地として捉えるべきであるとか、日本の近代化について日本国家が日本社会を植民地化した過程である(自己植民地化論)と捉える観点も存在する。, 美濃部達吉は1923年(大正12年)の『憲法撮要』にて、「法律上の意義に於ての殖民地」を「国家の統治区域の一部にして内地と原則として国法を異にし」たものと定義し、「朝鮮、台湾、樺太、関東州及南洋群島が此の意義において植民地なることは疑いを容れず」と述べる。, 水野直樹[6]は、日本の法令で植民地という用語を使用したものはないが、公文書ではこれらの地域について植民地(殖民地)の語を使用しているものが存在していたことを指摘する。, など、内地と外地の間に法律上の区別が存在したことから、アカデミズムの世界ではこれらの地域について「植民地」と呼ぶことを自明の前提として研究や議論が展開されることが多い。, また、日本の統治が及んでいた地域ではないが、1932年(昭和7年)に建国された満洲国(満洲国については、準外地と呼ぶことがある)や、大東亜共栄圏構想の下に起こした太平洋戦争の間に日本軍占領下で樹立された国々(フィリピン第二共和国、ベトナム帝国、ラオス王国、ビルマ国、カンボジア王国)や、日本軍占領下で成立した政権の支配地域(蒙古自治邦、汪兆銘政権など)を名目上は独立国であるとはいえ、その実質的な傀儡性から、第二次世界大戦中においては日本の植民地同然だったとする見解もある。, 比較法学の観点では、当時の国法学の観点では「国土」という確定された領域は国土学によって理論的に整除され、その結果を憲法に記述することが慣行となっていた。1831年のベルギー憲法、1848年のプロイセン憲法、1871年のドイツ帝国憲法のように第一条に国土条項を記述するのが通例で、領土条項を欠いた憲法はなんらかの事情があり、その点で大日本帝国憲法は異例であった。石村修はこの点について江戸時代における長期の鎖国体制や地政学的特性に着目する。西欧型の植民地経営の特徴は、自国の法がおよぶ範囲を限定し殖民会社に軍備・司法・行政・外交の特権を付与することで、国家も直接植民地支配の煩わしさから解放されることになり、そこでは軍事警察力による暴力的な支配権力が不可欠であり、法的には内地と区分された(外地)という枠組みが形成されるにいたった。19世紀のヨーロッパは国家主権が欠落した空間に宗主国の主権が及ぶことを想定しながら、直接的な責任逃れの法理が適用されることを期待して「外地」(overseas territories)という領土を作り出したとする[4]。, 明治憲法(大日本帝国憲法)の形質の観点では、明治憲法に領土規定がなく、ヘルマン・ロエスレルの案においては領土は自明のものであり、また「国体」に関わり議院に属さないものだとして領土規定は立ち消えたのであるが、実際にはロエスレルの認識とは異なり日本の領土は北(樺太・北海道)も南(琉球)も対外政策は不安定な中にあった。明治政府にとって好都合であったことは確かで露骨なものとしては「我カ憲法ハ領土ニ就イテ規定スル所ナシ、諸国憲法ノ或ハ領土ヲ列挙スルト甚タ異レリ、サレハ我ニ在リテハ、領土ノ獲得ハ憲法改正ノ手続ヲ要セス」(上杉慎吉「新稿・憲法述義」1924年P.143[7])と解されていた[8]。, いくつかの勅令等に「殖民地」「植民地」の用語を使用するものが存在したことが指摘される。, また、公文書にも「植民地」の用語例は見られ、例えば大正12年刊行の拓殖事務局『植民地要覧』では朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島を「我が植民地と解せらるる」とした(同書では南満州鉄道付属地も扱った)。, 植民地という用語は元々は「開拓地」や「入植地」などと同様に正否の価値判断を含まない一般術語であり、近代植民地法制学等の社会科学におけるに講学上のテクニカルタームにすぎない[注 5]。外地を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの感情的な反発は明治期からすでに存在し、いわゆる忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり、外地を植民地と呼称することは回避され「我国にては斯(植民)の如き公の称呼を法律上一切に加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」[13]ことが事実上の慣例となっていた。, 中華人民共和国はチベット(西蔵自治区、青海省など)や内モンゴル(内蒙古自治区)、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)、満洲(遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内蒙古自治区の東部など)などの主権を中華民国から継承したものとし、これらの地域は「もともとの中国の不可分の領土」であるとして、併合していった。現在のこれらの地域は、法制(中華人民共和国憲法の民族自治規定等)上は完全に他の中華人民共和国省区、内地と同格であり、またこれらの土地のほとんどの民族は中華民族に包摂されると定義されているため、形式上、植民地とは言えない。国際連合非自治地域リストに上記地域は含まない。, 中華人民共和国において中国共産党による事実上の一党独裁政治による宗教や思想の統制はこれらの地域に限定したことではないが、中国の少数民族の伝統的な文化・宗教・思想が取り締まりの対象となる際、民族文化への弾圧と捉えられる向きがある。, 以上のような視点をもとに、東トルキスタン亡命政府、チベット亡命政府、内モンゴル人民党などの独立や自治を目指す諸団体は「中華人民共和国の植民地支配」という表現を多用する。, 朝鮮半島や朝鮮史を中国や中国史の一部、あるいは従属地域・従属国と見なす研究や記述が存在している。, たとえば米国コロンビア大学オンライン百科事典によれば、韓国古代史について韓国では壇君神話から紀元するものの、中国文献によれば商王朝難民により箕子朝鮮がB.C.1122年に平壌で建国されたのが始まりであるとし、あるいは衛氏朝鮮が朝鮮最初の国家であると解説する[15]。, 韓国側文献として例えば『韓国史大事典』では、朝鮮王朝(李朝)と中国(明)の関係については「朝鮮」という国号を明に選んでもらったことを指摘した後、「従属の象徴として明の年号を使った」と説明する。また後の清についても「宗主国」とし、日清戦争で清が日本に敗北した結果として「朝鮮が完全な独立国であることを確認するにいたり、政治的な従属関係はなくなった」と解説する。また日清戦争後、国号を朝鮮から「大韓帝国」に変えた経緯について「清の属国から脱して独立し帝国として発展するという意味」があったと説明する。李朝の前の高麗時代に中国を支配した元との関係では「属国」との表現はないが、高麗王が六代にわたって必ずモンゴルの王妃を迎えるという従属的な「ふま国」となり「自主性を失った」としている[16]。, 学生向け教科書にも同様の記述がみられる[注 6]。, アフリカに残るヨーロッパによる植民地支配の影響は? 現在は独立したといっても、かなりの期間支配されていたので、多くのアフリカ諸国は現在でも旧宗主国の影響を強く受けています。 6位:フランス(約2.5兆ドル). みをつくし料理帖 桜の宴, インヴィンシブル投資法人 配当, 本稿は.これまでのアフリカの発展過程を過去から現在. 黒人奴隷/黒人奴隷制度. 109シネマズ マイページ, ジョーカー バットマン 関係, バックトゥザフューチャー テーマ曲 作曲者, みをつくし料理帖 動画 スペシャル, アフリカ諸国の独立/アフリカの年/1960年. キャプテンマーベル スタンリー オープニング, ハケンの品格2 動画, 外務省 主要経済指標・経済指標関連リンク 世界約190か国の中でアメリカと中国とアメリカのみGDPは10兆ドルを超えており、特にアメリカのGDPは20兆ドルに迫る … アフリカ諸国の独立/アフリカの年/1960年. 小塚崇彦 今, � 現在は、多くの国が独立を果たしていますが、長い間植民地支配にあっていたことで、 多くの影響が今でも出ています。 テストでも問われることがあるので、どのような影響が出ているのかを軽くお話ししておこうと思います。 植民地支配による影響. プライム ツリー 赤池 マッサージ チェア, ドローン Fpvカメラ. 取り調べ 弁護士 同席 海外, 高畑充希 映画 2019, アフリカ ノ ショクミンチカ ト テイコウ ウンドウ. インスタストーリー おしゃれ 文字, アフリカ経済の「外部依存性」と「単一産品生産」は、アフリカの植民地支配の勝利、ある いは独立したアフリカ諸国の嘆きの原因として論じられてきた。 旧宗主国は植民地には財政面の自立を求めた。植民地政府は、特定の一次産品の生産に特化 アフリカ分割から始まったアフリカの植民地化は、その後のアフリカの発展や開発に多大な影響を与えました。その影響について詳しく見ていきたいと思います。現在の世界においてアフリカ(一部の北アフリカを除く)は、西洋的なスタンダードで見れば最も発展や スタンレー ゴーシリーズ コストコ, 村上佳菜子 メレンゲ 腹筋, Aduseiとやがて有名なレコード・プロデューサーとなるFrimpong Mansoは、多くの偉大なハイライフ・ミュージシャンがスターダムへの階段を駆け上がったAccraの音楽スタジオで出会った。その2人は共に、ガーナで最も広範なハ… これに対して現在、当事者の女性たち5名が5 ... 、政府だけではなく教会や企業などの非国家主体を含めたベルギーによる植民地支配が、植民地にもたらした影響について検討することである。なお、ルワンダとブルンディも調査対象となっている[ La Libre 2020b 昔話法廷 結果, 現在のコンゴ民主共和国とルワンダ、ブルンジにあたる地域を植民地支配していたベルギーは、人種隔離政策をとり、現地で人種の異なる人同士� 現在は、多くの国が独立を果たしていますが、長い間植民地支配にあっていたことで、 多くの影響が今でも出ています。 テストでも問われることがあるので、どのような影響が出ているのかを軽くお話ししておこうと思います。 家計調査 統計表一覧, ÌìÍH, AtJÌTn»ðmë¤Fê/Có/lûÈÇ, AtJÅL¼ÈRS~nÁÄÇñÈêHÁ¥ÈÇ. 池袋事故 裁判, イオンシネマ バイト 新百合ヶ丘, 東南アジア、アフリカ、ラテンアメリカの国々の旧宗主国を一覧にまとめました。 宗主国とは、植民地にたいする本国の呼び名です。 植民地は、経済的・文化的に宗主国から影響を受けます。 現在はそうした紛争も数を減らしてはいるものの、続いていたり、終結したあとも影響が出続けている紛争もあります。, 30秒で終わる簡単なアンケートに答えると、「アフリカの紛争で苦しむ人々を支える」活動している方々・団体に、本サイト運営会社のgooddo(株)から支援金として10円をお届けしています!, 設問数はたったの4問で、個人情報の入力は不要。あなたに負担はかかりません。年間50万人が参加している無料支援に、あなたも参加しませんか?, アフリカはかつてヨーロッパの植民地として支配され、独立はできたものの不安定な情勢から内戦や紛争が勃発し、世界の紛争多発地域と見られてきました。, 近年は徐々に終息を見せ、紛争の数こそ少なくなりましたが、中央アフリカやコンゴ、南スーダンなど紛争を行っている地域やさらに激化している地域もあり、多くの被害が出てしまっているのが現状です。, 2005年時点では、南北スーダンで死者約50万人、難民や避難民だけで約400万人にのぼり、同じスーダン国内のダルフールでは、2006年時点で死者約20万人、難民や避難民は約200万人と1つの国の中でも多大な被害を出しているのです。, アフリカで起こる紛争で難民となっている人の数だけでも約900万人にものぼります。これは世界の難民の約4分の1を占めており、その被害の大きさが伺えます。, (出典: 外務省「わかる!国際情勢 スーダン~多様性に満ちた国」)(出典:ワールド・ビジョン・ジャパン「アフリカの子どもたちとワールド・ビジョンの活動」), 中央アフリカは北東にスーダン、東に南スーダン、南にコンゴ民主共和国と内戦や紛争が長期化、あるいは激化した国に囲まれており、中央アフリカも「世界でもっとも貧しい国」と形容されています。, これも内戦による被害であり、2017年時点で全人口の4分の1が避難を強いられている状況なのです。, (出典:国連UNHCR協会 「中央アフリカ共和国 世界で最も貧しい国の難民危機」), 中央アフリカ内戦の原因は2013年に起こったボジゼ政権打倒のための侵攻とされています。, 2012年12月に野党と反政府武装勢力5団体が連合して結成したセレカという団体が、首都バンギを陥落させ、ボジゼを国外逃亡に追い込んだことで達成し、セレカのリーダーであるジョトディアが大統領に就任することで新政権を樹立しました。, しかし、国際社会からはこの新政権が承認されず孤立してしまいます。また国民はセレカの民兵から武力による抑圧を受けており、暴力が耐えない状態でした。, さらにイスラム系団体とキリスト教系の国民との対立が激化、宗教対立にまで発展することとなりました。, このような情勢を受け、欧州やアフリカ連合からの圧力によりジョトディア政権は崩壊し、新たな移行国民評議会により新たな大統領が選出されるなど、国内の安定化を図ろうとしました。, そして2017年5月武装グループ間での新たな紛争により、特に北西部での戦闘が激化して多くの被害が出る結果となってしまったのです。, 戦闘の激化がごく最近であることから、この紛争状態は今でも継続されています。2017年時点で、難民だけで約51万人、国内避難民だけで約60万人にもなります。, さらに人道支援が必要な人は、2017年時点で約250万人と推定され、国民の2人に1人がこの状態に陥ってしまっているのです。, 今も難民や食糧難に陥る人の数は増加しており、マラリアや下痢、感染症などにさらされている人があとを絶たない状況です。, (出典:国連UNHCR協会 「中央アフリカからの難民が記録的多さに 支援金は最小」2017)(出典: 外務省「中央アフリカの基礎データ」2019), コンゴ民主共和国も、度重なる戦争や紛争で経済が破綻してしまった世界最貧国の一角です。, 中央アフリカの南に位置し、各種鉱物資源に恵まれた国ではありましたが、1990年に起こった内戦が全てを狂わせてしまったのです。日本ではあまり報道されませんが、その悲惨たるコンゴ戦争の原因と現状を紹介します。, コンゴ民主共和国は1997年までザイール共和国という名前の国でした。しかし現在まで続く紛争の影響により、国の名を変えることになりました。, そのきっかけとなったのが、1990年から1993年に起こった隣国であるルワンダの内紛です。, また1994年に起きたルワンダ大虐殺も長期化の要因とされています。ルワンダの内紛は、ルワンダ国内の2大民族であるフツ族とツチ族の民族間の溝が深まることによって起こったものと言われています。, この内紛はフツ族が起こしたルワンダ大虐殺を受け、ツチ族の軍であるルワンダ解放戦線が首都を制圧することで終結しました。, しかし新政府樹立後、政府やツチ族からの報復を恐れたフツ族がコンゴ民主共和国東部に流入、中にはフツ族の武装グループも含まれていました。, この頃ザイール共和国時代の政治は腐敗しきっており、武装グループへの対策を行わず首謀者を匿い、支援していたとも言われています。, これを受け、ルワンダは軍事介入を行い、戦争へと発展してしまいました。これが第1次コンゴ戦争です。, 戦争は1996年から1997年まで続き、コンゴ民主共和国側の敗北で決着しました。この時コンゴ民主共和国へ国名が変わっています。, しかし翌1998年には再びルワンダや周辺国が侵攻したことにより、第2次コンゴ戦争が勃発しました。2003年には表面上は終結したものの、武装勢力同士の衝突は現在も続いており、周辺国の複雑な関与により現在も紛争状態が続いています。, 現在も紛争状態が続き、実に20年以上も凄惨な状態が続くことで190万人以上が家を追われ、国内では450万人以上が避難しています。, また国外へ逃亡した人も63万人となっており、被害は拡大していく一方です。これは戦闘だけでなく、民間人への無差別的な拷問や虐殺、性的暴行などもあり、逃れるために多くの被害者が生まれてしまっているのです。, (出典:独立行政法人国際協力機構JICA 「コンゴ民主共和国 ジェンダー情報整備調査報告書」,2017)(出典:外務省 「コンゴ民主共和国 基礎データ」2019), 南スーダン共和国は、イギリスから独立したスーダンからさらに独立することで設立した国です。2011年に起こった南部独立の住民投票を皮切りに、南スーダン共和国が独立しました。, しかし国造りをするための内政が不安定であり、やがて内戦へと発展する事態となり、現在でも緊迫した状態が続いています。, 南スーダンは独立後新体制を作り上げようとしましたが、与党であるスーダン民解放運動内で派閥抗争が起こり、激化してしまいます。, 2013年には首都ジュバにて、大統領警備隊同士の衝突が起こりますが、治安はすぐ回復しました。しかしこれを皮切りに各地での衝突が相次ぎ、多くの難民を出すことになりました。, 2016年には関係当事者による合意文書署名が行われ、国民統一暫定政府が樹立されたことによって一度は落ち着きを見せたものの、同年に再び主流派と反主流派が衝突して各地で暴動が起こり、さらに多くの難民が発生しています。, この内戦も2018年6月には恒久的停戦を含むハルツーム宣言を採択することでとりあえずの終結を見せています。, しかし各地の暴動は後を絶たず、暫定政府体制の準備も未だ完了していない状態で、2019年5月には暫定準備期間を6ヶ月延長する状態にまで陥っています。, これにより国内避難民は約190万人、国外へ逃れた難民は約150万人にものぼり、510万人が食糧支援を含む人道支援が必要な状態となってしまっています。, それだけではなく、民家への略奪や放火、子どもへの略取、性的暴行などが今も起こっており悲惨な環境となっています。, (出典:ワールド・ビジョン 「南スーダン共和国」)(出典: 外務省「南スーダン 基礎データ」2019), 1962年に独立しているものの、1993年には内戦にまで発展する衝突が起こった国でもあります。その原因と現在の状況をご紹介します。, ブルンジ紛争の原因の一端は、2大民族の衝突とされています。ブルンジにもフツ族とツチ族が住んでおり、その対立が煽られ1962年の独立以降に度々衝突が起こり、計25万人もの人が虐殺されました。, やがて1993年にはこの衝突が紛争にまで発展し、30万人もの命が奪われる結果となったのです。, ブルンジ紛争は民族間の権力分有と和解が進む形で終息に向かっています。しかし紛争の影響もあり貧富の差が激しく、国民の多くが最低ライン以下の生活を強いられている状況です。, また2015年時点において、1000人中82人の子どもが5歳まで生きるのが難しい状況下にあり、厳しい弾圧と暴力、食糧難、マラリアと命を脅かされる状態が続き、42万人以上が今も国外へ逃亡しています。, リビアはアフリカでも北に位置し、エジプトやスーダン、チュニジアなどに隣接する国です。, 1951年にリビア連合王国となってから現在まで実に7回も国名を変えた国ですが、これには2度の内戦と不安定な国内情勢によるものと言われています。, リビア内戦の原因は2011年のカダフィ政権の崩壊にまで遡ります。1969年に起こったクーデター以降、42年間に渡るカダフィ大佐の独裁政権が崩壊しました。, このときリビアの政治社会的要求を掲げた反政府デモが、武装闘争にまで発展したのが2011年リビア内戦(第一次リビア内戦)です。, 一度は終結し、新たな国へと生まれ変わろうとしていましたが、2014年に国民暫定評議会から制憲議会へと権限譲渡されるはずが行われず、並立する事態が起こりました。, これにより紛争へと発展、さらにIS系武装集団やカダフィ派残党が入り乱れての泥沼の戦闘にまでなってしまったのです。, 現在のリビアではこの内戦の影響が続き、情勢は不安定で国内でも緊迫した状態が続いています。, さらにアフリカ中央や南から出た難民はリビアを経由してヨーロッパに渡る人も多く、リビアに逃れてきたことで、搾取や暴力の対象、あるいは誘拐されることもあり命の危険にさらされています。, 国際社会の支援を受け、政治対話は進展していますが、安定化の兆しは未だえてこない状況です。, マリ共和国は西アフリカに位置し、アルジェリアやコートジボワール、ギニア、セネガルに囲まれています。, 1960年にフランスからセネガルと共に独立し、同年9月にマリ共和国として国名を改めました。, 一度はクーデターによる軍事政権が成立しましたが、1991年に起こったクーデターにより打倒されました。しかし21年後、これが紛争への原因の一因となります。, 1991年に樹立された暫定政権での立役者トゥーレが2002年大統領に選出され、政権を握り10年ほど政治を行った頃、中央政府からの独立を求める武装蜂起をトゥアレグ族が起こしたことにより、マリ北部戦争へと発展することとなりました。, さらに一部国軍兵士らによるバマコでの騒乱により、トゥーレ大統領は辞任、代わりにトラオレ国民議会議長が暫定大統領に就任することとなりました。, しかし翌2013年にはイスラム過激派武装組織などが北部地域に入り込んでしまいます。これを受け、マリ暫定政権がフランスに軍展開を要請し、介入、制圧をしたことにより大規模な紛争にまで発展したと言われます。, マリ北部紛争は2015年に行われた和平合意により終結したとされています。しかし国内情勢は不安定で、今も厳しい生活を余儀なくされている人がたくさんいます。, また、性的暴力が横行し多くの被害者が出ていますが、裁判所や警察に行くこともなく精神的な苦痛を抱えて生きている女性があとを絶たない状態です。, (出展:外務省 「マリ共和国 基礎データ」2019)(出典: 公益財団法人 日本ユニセフ協会「紛争で暴力を受けた女性を保護するプログラムを実施」), アフリカで起こる様々な紛争により難民となった人々は、食糧難に陥るのはもちろんのこと、不衛生な環境での生活により命を落とす場合もあります。, アフリカの紛争で苦しむ人々を救うために活動をする人々や団体がありますが、活動を継続して行うには資金や人材がまだまだ足りていません。, お願いしたいのは、選択肢から選ぶだけの4つの質問にお答えいただくだけです。お金はもちろん、個人情報や何かの登録も一切不要で、30秒あれば終わります。, それだけで、紛争で苦しむ人々を支える活動をしている方々・団体に本サイトの運営会社であるgooddo(株)から支援金として10円をお届けします。, グループメディア:BITDAYS | DELIGHTmedia | GANMA!ニュース, gooddoマガジンはソーシャルグッドプラットフォームgooddo(グッドゥ)が運営する社会課題やSDGsに特化した情報メディアです。日本や世界の貧困問題、開発途上国の飢餓問題、寄付や募金の支援できる団体の紹介など分かりやすく発信しています。, 2015年時点において、1000人中82人の子どもが5歳まで生きるのが難しい状況下, 紛争は近年では終息してきたが、中央アフリカ、コンゴ、南スーダンなど紛争が激化している地域もある, 中央アフリカはスーダンやコンゴなどの紛争が長期化、激化した国に囲まれ「世界で最も貧しい国」と言われてる, マリ北部紛争は、2015年の和平合意により終結はしたが依然として厳しい生活が続いている.