駒はその夢を実現すべく、丸薬作りにいっそう励む決意を固めました。 I:義昭は〈古の悲田院の如きものじゃ〉と熱弁を振るっていました。 日本では奈良時代に光明皇后(聖武天皇の皇后)が設置した悲田院、施薬院が有名です。 光秀と話した後、 室町幕府最後の将軍足利義昭が、織田信長と対立して、小早川隆景庇護の下、備後の国鞆の浦に下ったのが、天正4(1576)年のことでした。鞆の浦は、足利家にとってゆかりのある土地で、尊氏が新田義貞追討の院宣を光厳上皇より受けた場所でもありました。 歌詞はもう共感性羞恥で無理。 だいたい10時でしたそこで彼氏は起きるのを待っていました。結局私が起きずに彼氏がベッドに運んでくれました。 信長は続いて、義昭と共に三好三人衆らを討伐に出るが(野田城・福島城の戦い)、途中で石山本願寺および浅井氏・朝倉氏が挙兵。信長は近江へ引き返したが、浅井・朝倉氏は比叡山延暦寺に立てこもり、さらに伊勢で一向一揆が蜂起するなど連合軍の巻き返しに遭い、12月には信長方から和睦を申し出た。その際、信長から朝倉方との和睦の調停を依頼された義昭は、旧知の関白・二条晴良に調停の実務を要請している。元亀2年(1571年)4月14日、烏丸光宣に嫁いでいた義昭の姉が急死するが、後難を恐れた光宣が出奔してしまう。これに激怒した義昭が同28日に一色藤長らに烏丸邸を襲わせている[19]。, 信長に不満を持った義昭は、自らに対する信長の影響力を相対化しようと、元亀2年(1571年)頃から上杉輝虎(謙信)や毛利輝元、本願寺顕如や甲斐国の武田信玄[注釈 20]、六角義賢らに御内書を下しはじめた[注釈 21]。これは一般に信長包囲網と呼ばれている。この包囲網にはかねてから信長と対立していた朝倉義景・浅井長政や延暦寺、兄の敵でもあった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わっている。ただし、松永久秀追討に義昭の兵が参加するなど、義昭と信長の対立はまだ必ずしも全面的なものにまではなっていなかった。, この年の11月には、摂津晴門の退任後に空席であった政所執事(頭人)に若年の伊勢貞興を任じる人事を信長が同意[27]し、貞興の成人までは信長が職務を代行することになった[20]。, 元亀3年(1572年)10月、信長は義昭に対して17条の意見書を送付した[注釈 22][注釈 23]。 義昭は信長に擁されて上洛し第15代将軍に就任するが、やがて信長と対立、信長包囲網を築き上げる。 足利義昭は、室町幕府第 12 代将軍・足利義晴(よしはる)の息子でしたが、家督相続者として実兄の足利義輝(よしてる)がいたため、仏門に入ります。 -足利義昭をどんな人物だと捉えていますか。 義昭は室町幕府の将軍ですが、貧しい人たちのために生きていたお坊さん・覚慶(かくけい)の時代から描かれているので、その思いを大切にしながら芝居を … また、幕府の管領家である細川昭元や畠山昭高、朝廷の摂関家である二条昭実に偏諱を与え領地を安堵し政権の安定を計り、兄の義輝が持っていた山城国の御料所も掌握した。また山城国には守護を置かず、三淵藤英を伏見に配置するなどし治めた。幕府の治世の実務には、兄の義輝と同じく摂津晴門を政所執事に起用し、義昭と行動を供にしていた奉行衆も職務に復帰して幕府の機能を再興した。また伊勢氏当主も義栄に出仕した伊勢貞為を弟の貞興に代えさせて義昭に仕えさせたとされる[10][20]。また、当時の記録(『言継卿記』・『細川両家記』など)には、義昭期の奉公衆として三淵藤英・細川藤孝・和田惟政・上野秀政・曽我助乗・伊丹親興・池田勝正の名前が確認できる[16]。 このように幕府の再興を見て、島津義久は喜入季久を上洛させて黄金100両を献上して祝意を表し、相良義陽や毛利元就らも料所の進上を行っている[5]。, 義昭は当初、本圀寺を仮御所としていたが、永禄12年(1569年)1月5日、信長の兵が領国の美濃・尾張に帰還すると三好三人衆の巻き返しに晒され、本圀寺を襲われた(本圀寺の変)。兄・義輝と同様の運命になるかとも思われたが、この時は奉公衆および北近江の浅井長政・摂津国の池田勝正・和田惟政・伊丹親興・三好義継らの奮戦により、これを撃退した。烏丸中御門御第の再興および増強は、このような理由で急遽行われた。なお、この変事の直後である1月7日、義昭は大友宗麟に毛利元就との講和を勧め、13日には互いに講和して三好氏の本拠である阿波に出兵させようとしたが、この計画は実現しなかった[注釈 16]。, 義昭は信長に命じて兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第(旧二条城とも呼ばれる)を整備する。この義昭の将軍邸は、二重の水堀で囲い、高い石垣を新たに構築するなど防御機能を格段に充実させたため洛中の平城と呼んで差し支えのない大規模な城郭風のものとなった。この烏丸中御門第には、室町幕府に代々奉公衆として仕えていた者や旧守護家など高い家柄の者が続々と参勤し、ここに義昭の念願であった室町幕府は完全に再興された。, 新将軍として幕府を再興した義昭はまず信長の武功に対し幕閣と協議した末「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」の称号を与えて報いた。将軍就任直後の10月24日に信長に対して宛てた感状で、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名したことは、ことに有名である。, 信長は上洛の恩賞として尾張・美濃領有の公認と旧・三好領であった堺を含む和泉一国の支配を望んだ。そのため義昭は信長を和泉守護に任じた。さらに、信長には管領代または管領の地位、そして朝廷への副将軍への推挙を申し入れた。しかし信長は受けず、弾正忠への正式な叙任の推挙のみを受けた。, この時その他の武将にも論功行賞が行われ、池田勝正を摂津守護に、畠山高政・三好義継をそれぞれ河内半国守護に、細川藤賢は近江守護に任じられた。山城国には守護はおかれず将軍家御領(上山城守護代として長岡藤孝、下山城守護代として真木島昭光)となる。後に山岡景友が守護に任ぜられたともされるが、実質は義昭と信長によって共同統治された。, しかし、幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑は違っていたために、両者の関係は徐々に悪化していくこととなる。永禄12年(1569年)8月に信長は自ら伊勢国の北畠氏を攻め、本拠地である大河内城を包囲して攻撃したものの北畠氏の抵抗で城を落としきれず、信長の要請を受けた義昭が仲介に立つ形で10月に和睦が成立した(大河内城の戦い)[21]。ところが、両者の意見の齟齬から、信長が自分の次男(後の織田信雄)を北畠氏の養子に押し付けるなど、義昭の意向に反する措置を取ったことがその不快感を招き、関係悪化の一因になったとされている[16]。, 信長は将軍権力を制約するために、永禄12年(1569年)1月14日、殿中御掟という9箇条[注釈 17]の掟書を義昭に承認させた[5]。さらに永禄13年(1570年)1月には5箇条が追加され、義昭はこれも承認した。この殿中御掟については近年、信長が単純に将軍権力を制約しようとしたのではなく[注釈 18]、ほとんどの条文が室町幕府の規範や先例に出典が求められるもので、信長が幕府法や先例を吟味した上で幕府再興の理念を示したものだとする説も出されている[22]。また、5箇条の承認とほぼ同じくして信長の書札礼が関東管領である上杉謙信とほぼ同格になっており、信長が「准官領」(管領・管領代に准じるものと位置付けられた幕府官職)の就任を受け入れた代わりに信長の方も義昭に求めた要望の結果が記されたもので、信長を幕府の秩序体制に組み込んだという意味では義昭の権力基盤の安定化につながったとする見解もある[23][24]。また、義昭期の幕府機構を研究していく中で、義昭が信長の傀儡とは言えず室町幕府の組織が有効に機能しており、むしろ義昭個人の将軍権力の専制化や恣意的な政治判断による問題が浮上し始めていたとする指摘もある[16]。だが、義昭が殿中御掟を全面的に遵守した形跡はなく、以後両者の関係は微妙なものとなっていく。, 元亀元年(1570年)4月、信長は徳川家康とともに姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に勝利する[注釈 19]。 「麒麟がくる みんなの感想 YahooテレビGガイド」のサイトが突然削除されました。大河ドラマの感想をみんなで書き込み,共有できる貴重なレビューサイトだったのに残念です。これが突然削除されたのは,やはり昨日の「本能寺の変」の描き方があまりにも稚拙だったので,大炎上したためでしょうか。 なお、義昭は朝倉氏よりも上杉輝虎を頼りにしていたという。しかし輝虎は武田信玄との対立と、その信玄の調略を受けた揚北衆の本庄繁長の反乱、越中の騒乱などから上洛・出兵などは不可能であった[5]。他の大名[注釈 9]からも積極的な支援の動きは見られず、血筋や幕府の実務を行う奉行衆の掌握といった点で次期将軍候補としては対抗馬である従兄弟の足利義栄よりも有利な環境にありながらいつまでも上洛できない義昭に対し、京都の実質的支配者であった三好三人衆が擁する義栄は、義輝によって取り潰された伊勢氏(元政所執事)の再興を約束するなど朝廷や京都に残る幕臣への説得工作を続け、その結果、永禄11年(1568年)2月8日に義栄は摂津国滞在のまま将軍宣下を受けた[10]。, 永禄11年(1568年)4月15日、義秋は「秋」の字は不吉であるとし、京都から前関白の二条晴良を越前に招き、ようやく元服式を行って義昭と改名した[注釈 10][注釈 11]。 大河ドラマ「麒麟がくる」。義昭と駒の関係。 大河ドラマを年末年始にまとめ見しています。 足利義昭とお駒さんは男女の関係をしたの? 側室になった様子はないけれど、 ようするに「性行為」をしたとい … 翌年3月には新将軍足利義昭の妹と結婚。この縁でその後は義昭とほぼ行動を共にするが,天正1(1573)年7月義昭の反によりその立場は悪化,槙嶋城より退去した義昭を若江城にかくまった咎を受け,同年11月佐久間信盛の猛攻のもとに自刃して果てた。 今回は、室町幕府の最後の将軍、15代目の足利義昭あしかがよしあきについてわかりやすく丁寧に解説していきます。この記事を読んでわかること足利義昭ってどんな人?どんな生涯を歩んだの?足利義昭と織田信長の関係は?足利義昭はなぜ室町幕府の最後の将軍 コアな歴史ファンや... 毎朝観てるフジテレビのめざましテレビで今週月曜日から三宅アナが出てない理由がわかりません。ご存知のかた教えてください。. しかし、織田信長と足利義昭の関係が悪化し始めると、先を見越した近衛前久は、1572年に本願寺を離脱し、織田信長に接近します。 そして間も無く織田信長が足利義昭を追放して室町幕府が滅亡すると、1575年、織田信長が正親町天皇に近衛前久の赦免を奏上し、帰洛を果たします。 室町幕府最後の将軍足利義昭と、義昭を将軍の座につけた織田信長との関係を理解するのは、なかなか難しい。 かつては、信長が最終的には義昭と対立して京都から追放したという「結果」から二人の関係をさかのぼり、もともと信長は「天下人」になる野望があり、義昭は傀儡に過ぎなかった。 合格点のラインはどのようにして決められるのでしょうか。, https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11233870256. 加冠役は朝倉義景が務めている。, やがて、朝倉家の家臣であった明智光秀の仲介により、三管領斯波氏の有力家臣であった織田信長を頼って尾張国へ移る。またこの時、明智光秀に信長に仕えるよう密命を下したと桑田忠親は指摘する[14]。, 永禄11年(1568年)9月、北近江の浅井氏などの支持も受けた上で、直接には織田信長軍と浅井長政軍に警護されて上洛を開始した。途中、六角義賢の抵抗もあったが退け、父・義晴が幕府を構えていた桑実寺に遷座、そしてさらに進軍し無事京都に到着した。これをみて、三好三人衆の勢力は京都から後退した。また、9月30日には病気を患っていた14代将軍・足利義栄も死去した(『公卿補任』)[注釈 12]。 この義秋の行動に対して、三好三人衆の三好長逸の軍勢3,000騎が突然矢島御所を襲撃してきたが、この時は大草氏などの奉公衆(親衛隊)の奮戦により、からくも撃退することが出来た。, しかし、永禄9年(1566年)8月、先の約束通り上洛の兵を起こした信長の軍は斎藤龍興の襲撃にあって尾張国に撤退[6][7]し、さらに六角義賢・義治父子が三好三人衆と密かに内通したという情報を掴んだため、義秋は妹婿である武田義統を頼り、若狭国へ移った[5]。斎藤龍興と六角義賢の離反がほぼ同時に起きているのは三好方による巻き返しの調略があったとみられている[7]。しかし、京都北白川に出城も構え、応仁の乱では東軍の副将を務め隆盛を極めた若狭武田氏も、義統自身が息子との家督抗争や重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上洛できる状況でなかった[5][注釈 6]。, 9月には若狭から越前国の朝倉義景のもとへ移り、上洛への助力を要請した。義秋は朝廷に義景の母を従二位にすることを上奏して、実現したりしている。朝倉義景は細川藤孝らによる覚慶(義昭)の奈良脱出の黒幕であったとする見方がある[8]一方で、すでに足利将軍家連枝の「鞍谷御所」・足利嗣知(足利義嗣の子孫)も抱えており[注釈 7]、仏門から還俗した義秋を奉じての積極的な上洛をする意思を表さなかったため、滞在は長期間となった。この頃、義秋のもとには上野清延・大館晴忠などのかつての幕府重臣や諏方晴長・飯尾昭連・松田頼隆などの奉行衆が帰参する[注釈 8]。 ほぼ毎日彼氏と一緒に夜寝るのですがある日お酒に酔ってコタツでお風呂にも入らず寝てしまいました 10月18日、朝廷から将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。同時に従四位下、参議・左近衛権中将にも昇叙・任官された[5]。なお、当時の人々の間では新興勢力である信長は義昭に従う供奉者として認識されており、信長側でも信長は御供衆の1人であるという認識があった(池田本『信長記』)[16]。, 将軍に就任した義昭は義輝暗殺及び足利義栄の将軍襲職に便宜を働いた容疑で近衛前久を追放し[注釈 13]、二条晴良を関白職に復職させた[注釈 14]。近衛家は義昭の生母であった慶寿院以来、将軍の御台所を輩出してきたが、前久追放による関係の冷却化によって正室を迎えることが出来なくなった[注釈 15]。 父は第12代将軍・足利義晴。兄の第13代将軍・義輝が暗殺され、その後信長に擁され上洛し、第15代将軍になりました。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を … 皆さんの回答お待ちしています。, 本日行われた33回社会福祉士試験の合格点のラインはどのくらいだと思われますか? 大河ドラマ「麒麟がくる」。義昭と駒の関係。 大河ドラマを年末年始にまとめ見しています。 足利義昭とお駒さんは男女の関係をしたの? 側室になった様子はないけれど、 ようするに「性行為」をしたとい … 大河ドラマ『麒麟が来る』でもちらほら姿が見えてきている室町幕府最後の将軍・足利義昭。足利義昭の妻と子、子孫たちについて調べてみました。足利義昭の正室はいない足利義昭には正室はいません。 何に対しての言葉でしょうか? 番組の終盤の41話では将軍・足利義昭が備後の鞆の浦で画策する様子が少し描かれ、なんと次の42話では、驚くことに義昭と明智光秀も一緒に登場する予定です。 また、ドラマですが、鞆にいた将軍・義昭が注目されたものと喜んでいます。 「是非もなし」という一人言にしたかった という演出?, 【知ってるワイフ】を観てて大倉忠義はどうして元奥さんが気になるのか 同棲しています 名門足利家の血を引く室町幕府第 15 代将軍・足利義昭の家系は? 仏門から将軍に、足利義昭の境遇. 今回は足利義昭と明智光秀の関係ついて書いていきたいと思います。明智光秀が織田信長に仕えていたのは有名ですが、光秀は信長に仕える前に将軍・足利義昭にも仕えていたと言われています。大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場する足利義昭とはどんな人物なのでしょうか。 これは義昭の将軍就任以降の5年間に元亀から新元号への改元問題を巡る朝廷との対立や近衛前久の出奔や烏丸邸の襲撃などによる伝統的に足利将軍家と「昵近」関係にあった公家との関係悪化があり、また、信長による公家への所領安堵があったとみられている。 足利義昭 とは. 足利義昭の生涯年表 1537〜1565年 – 1〜29歳「世間から隔絶された僧侶時代」 足利義昭の誕生 1537(天文6)年 11月3日、第12代室町幕府将軍足利義晴の次男として千歳丸、後の足利義昭が … 不思議です。 こんな感じで見てる人いますか?, 麒麟がくる 足利義昭(あしかがよしあき)と織田信長の微妙な関係性はどうやって幕を閉じたの? 足利義昭(あしかがよしあき)。 織田信長に協力してもらって京都へ舞い戻ることに成功し、信長と一緒に協力しながら天下を持ち直す政策を行っていきます。 足利 義晴(あしかが よしはる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第12代将軍(在職:1521年 - 1546年)。 第11代将軍・足利義澄の長男。 母は日野永俊の娘で日野富子の姪とされるが、永俊娘は永正2年(1505年)に義澄と離縁しているため、義晴の生母としては疑問が残る。 新型コロナウイルスによる放送一時休止から3カ月弱、nhk大河ドラマ「麒麟がくる」が帰ってきました。本能寺の変を起こした明智光秀を通して戦国絵巻が描かれる壮大なドラマもいよいよ後半戦、人気ライター木俣冬さんが徹底解説し、ドラマの裏側を考察、紹介してくれます。 観ててイライラします。 それが2時でした 違う奥さんと結婚したのに。 天正5年(1577年)9月の手取川の戦いで織田軍を破った上杉謙信も天正6年(1578年)3月に死去し、天正8年(1580年)には石山本願寺も信長に降伏した。天正10年(1582年)3月には武田勝頼が信長によって滅ぼされた(甲州征伐)[注釈 29]。また、毛利氏も義昭のために全く動いていない訳ではなかった。天正4年(1576年)に三好長治が自害に追い込まれて阿波三好家中が混乱すると、天正6年(1578年)には毛利輝元は三好義堅(十河存保)を三好氏の当主と認めて和睦、連合して織田氏に対抗しようとする。義昭自身は最初は和睦には反対であったが、最終的には同意して真木島昭光に仲介を命じている。だが、織田氏と結んだ土佐の長宗我部元親の讃岐・阿波侵攻によって計画は失敗してしまった[42]。, しかし、義昭がまだ鞆に滞在中であった天正10年(1582年)6月2日に信長と嫡子の織田信忠は本能寺の変で明智光秀に討たれた。光秀の家臣団には伊勢貞興や蜷川貞周といった、旧室町幕府幕臣が多くいた。同年、義昭は鞆城から居所を山陽道に近い津之郷(現福山市津之郷町)へと移させる[43]。, 信長の死を好機に、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めた。一方、羽柴秀吉や柴田勝家にも同じような働きかけを盛んに行なっていた。親秀吉派であった小早川隆景らが反対したこともあり、秀吉に接近しつつあった毛利氏との関係は冷却したとも言われるが、天正11年(1583年)2月には、毛利輝元・柴田勝家・徳川家康から上洛の支持を取り付けている。, 同年、毛利輝元が羽柴秀吉に臣従し、天正13年(1585年)7月、秀吉が関白太政大臣となる。その後、「関白秀吉・将軍義昭」という時代は2年半の間続いた。この2年半は、秀吉が天下を統一していく期間に該当する。, 義昭は将軍として秀吉との和睦を島津義久に対して勧めていた。天正14年(1586年)12月4日には一色昭秀を薩摩に送って和議を勧めている[44]。, 天正15年(1587年)、秀吉は九州平定に向かう途中に義昭の住む備後国沼隈郡津之郷の御所付近を訪れ、そばにある田辺寺にて義昭と対面した(太刀の交換があったといわれている)。同年4月、義昭は再び一色昭秀を送って島津義久に重ねて和睦を勧めている[5]。, 島津氏が秀吉の軍門に下った後の10月、義昭は京都に帰還する[43]。その後、天正16年(1588年)1月13日に秀吉に従って参内し、将軍職を辞したのち受戒し、名を昌山(道休)と号した。また、朝廷から准三后の称号(待遇)を受けている。, 秀吉からは山城国槇島において1万石の領地を認められた。1万石とはいえ前将軍であったので、殿中での待遇は大大名以上であった。文禄・慶長の役には、秀吉のたっての要請により、由緒ある奉公衆などの名家による軍勢200人を従えて肥前国名護屋まで参陣している。, 晩年は斯波義銀・山名堯熙・赤松則房らとともに秀吉の御伽衆に加えられ、太閤の良き話相手であったとされる。毛利輝元の上洛の際などに名前が見られる[45]。, 慶長2年(1597年)8月、大坂[注釈 30]で薨去。死因は腫物であったとされ病臥して数日で没したが、老齢で肥前まで出陣したのが身にこたえたのではないかとされている。義演は日記[48]の中で「近年将軍ノ号蔑也、有名無実弥以相果了」と感想を記している[34]。享年61(満59歳没)[5]。, 義昭の嫡男・足利義尋は、信長の人質となった後、興福寺の大乗院門跡となった。義尋は後に還俗して2人の子をもうけたが、2人とも仏門に入った。このため義昭の正系は断絶した。, 大坂の陣の際に義昭の子と称する一色義喬が総数563人分の「家臣連判帳」を提出して徳川方として参加しようとして果たせなかったという。その孫・義邵は会津松平家に仕え陸奥会津藩士となり、坂本姓を名乗る。仕官の際に足利氏菩提寺の鑁阿寺に相伝の家宝の一部を寄進したという(『足利市史 上巻』)。, 「永山氏系図」(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作集』所収)において泉州蟄居の際にできた子として、義在という人物の名が記されている。同史料に寄れば、義在は薩摩藩士となり、舅の姓に改姓して「永山休兵衛」と称したという。ただし、義喬と義在の存在は同時代史料では確認されていない。, 明治12年(1879年)には押小路実潔が、名家の子孫を華族に取り立てるよう請願書を提出しているが、この中で「西山義昭将軍裔ニして細川家ニ客タリ足利家」も名家の一つとして数えている[52]。 JavaScriptが無効です。ブラウザの設定でJavaScriptを有効にしてください。JavaScriptを有効にするには, 「麒麟がくる」ですが、足利義昭と駒が蚊帳の中二人きりで話をしていて流れで義昭が駒の手を握りましたが、これは二人がそのまま一線を越えたという事でしょうか?, ベストアンサー:恐らく違うと言いたいです。 明智光秀が55〜60歳で死んだとして、逆算していくと。義昭とお駒のシーン辺りで光秀の年齢は43〜48歳です。道三が死亡した時点の年齢は19, 「麒麟がくる」で、信長が、 足利 義昭(あしかが よしあき、1537年12月15日〈天文6年旧11月13日〉‐ 1597年10月9日〈慶長2年旧8月28日〉)は、室町幕府第15代(最後の)将軍[2](在職:1568年〈永禄11年〉- 1588年〈天正16年〉)。, 父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。足利氏22代当主。, 足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国の織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたが、やがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。, 信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。, 天文6年(1537年)11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。幼名は千歳丸。兄に嗣子である義輝がいた。, 天文11年(1542年)11月20日、千歳丸は跡目争いを避けるため、あるいは寺社との結びつきを強めるために嗣子以外の息子を出家させる足利将軍家の慣習に従って、外祖父・近衛尚通の猶子となって仏門(興福寺の一乗院門跡)に入室し(『親俊日記』『南行雑録』)、法名を覚慶と名乗った。のちに興福寺で権少僧都にまで栄進している。このまま覚慶は高僧として生涯を終えるはずであった。, 永禄8年(1565年)5月の永禄の変で、第13代将軍であった兄・義輝と母・慶寿院、弟で鹿苑院院主であった周暠が松永久通や三好三人衆らによって暗殺された。このとき、覚慶も久通らによって捕縛され、興福寺に幽閉・監視された[注釈 2]。 足利義昭は天文6年(1537)11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として誕生しました。 兄に嗣子である足利義輝がいましたが、継承争いを避けるため家督相続者以外の子は出家させるという足利家の習慣に沿って、天文11年(1542)に足利義昭は、法名を覚慶と名乗り興福寺の一乗院門跡に入室します。 しかし、義輝の側近であった一色藤長、和田惟政、仁木義政、畠山尚誠、米田求政、三淵藤英、細川藤孝および大覚寺門跡・義俊(近衛尚通の子)らに助けられて7月28日に脱出し、奈良から木津川をさかのぼり伊賀国[注釈 3]へ脱出した覚慶とその一行は、さらに近江国の六角義賢の許可を得た上で甲賀郡の和田城(伊賀 - 近江の国境近くにあった和田惟政の居城)にひとまず身を置き、ここで覚慶は足利将軍家の当主になる事を宣言した。11月21日には和田惟政と仁木義政の斡旋により六角義賢・義治親子の許可を得た上で、甲賀郡から都にほど近い野洲郡矢島村(守山市矢島町)に進出し[注釈 4]、在所とした(矢島御所)。この際に上杉輝虎(謙信)らに室町幕府の再興を依頼している。また輝虎と武田信玄・北条氏政の3名に対して和睦を命じたりしている[5]。, 永禄9年(1566年)2月17日、正統な血筋による将軍家を再興するため、覚慶は矢島御所において還俗し足利義秋と名乗った。当時の義昭のことを記した書物には、将軍家当主をさす矢島の武家御所などと呼ばれていたことが記されている。4月21日には従五位下・左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官[5][注釈 5]。, 矢島御所において義秋は、三管領家の一つである河内国の畠山高政、関東管領の上杉輝虎、能登国守護の畠山義綱(近江滋賀郡在国)らとも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。特に高政は義秋を積極的に支持していたとみえ、実弟の畠山昭高を、この頃に義秋に従えさせた。六角義賢は当初は上洛に積極的で、和田惟政に命じて浅井長政と織田信長の妹・お市の婚姻の実現を働きかけている[4]。義秋や六角・和田の構想は敵対していた六角氏・浅井氏・斎藤氏・織田氏、更には武田氏・上杉氏・後北条氏らを和解させ、彼らの協力で上洛を目指すものであったと考えられている。実際に和田惟政と細川藤孝の説得で信長と斎藤龍興は和解に応じ、信長は美濃から六角氏の勢力圏である北伊勢・南近江を経由して上洛することになった[6][7]。 足利義昭の鞆の浦滞在について調べている。鞆幕府は天正4年だが,それ以前に義昭が鞆の浦に来た形跡があるか。旅行でも何でも一時滞在したかどうか知りたい。 この記事では「足利義輝」と「足利義昭」の「関係」について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。 これを読めば「2人がどういう関係なのか」を、カンタンに理解できます。 次の日に、口論になった時に私を待っていたと言いました。でも彼はゲー... 「うっせぇわ」が嫌いです。歌詞が痛いけどメロディはいいとかよく見るんですが、メロディもなんというかあんまり好きじゃなくてサビでズコーってなります……。 「是非に及ばず」ではなく「是非もなし」と言ったのは、「是非に及ばず」では(まだ諦めていないという)命令みたいになるから、 これは肥後熊本藩士であった尾池義辰の子孫、西山氏を指すものであるが、この西山氏の先祖は義輝という説や義昭の弟という説もあるため明確になっていない。, 祭神として足利義昭が祀られており、御神体として「伝 足利義昭公像(束帯座像)」が伝存している。近隣は織田信長から京を追われて備後に流れ着いた義昭を毛利輝元家臣で当地周辺を統治していた渡辺氏(熊野一乗山城主)が匿ったとされる地で、義昭の寓居していた山は御殿山という名で現在も残っている。, 大可島城は毛利輝元を頼って下向した義昭が拠点とした場所。古くは足利直冬(足利尊氏の子、足利直義の養子)も西国での活動拠点とした瀬戸内の要衝であった。現在は陸続きになっているが、かつては独立した島に作られた城、「海城(水城)」であった。後に福島正則によって対岸に鞆城が整備されると、城跡地に現在の南林山釈迦院圓福寺が建立された。義昭はこの大可島城で幕府将軍としての政務を行っていた事から、「鞆幕府ゆかりの地」となっている。, 足利尊氏1338-1358 | 足利義詮1358-1367 | 足利義満1368-1394 | 足利義持1394-1423 | 足利義量1423-1425 | 足利義教1429-1441 | 足利義勝1442-1443 | 足利義政1449-1473 | 足利義尚1473-1489 | 足利義材1490-1493 | 足利義澄1494-1508 | 足利義稙(再任)1508-1521 | 足利義晴1521-1546 | 足利義輝1546-1565 | 足利義栄1568 | 足利義昭1568-1588, 久秀らは覚慶が将軍の弟で、なおかつ将来は興福寺別当(興福寺は大和の守護大名でもあった)の職を約束されていたことから、覚慶を殺すことで興福寺を敵に回すことを恐れて、幽閉にとどめたとされる。実際に監視付といっても外出禁止の程度で行動は自由であった。『上杉古文書』では厳重な監視としている, 当時、松永久秀と三好三人衆の間では確執が発生しており、上洛の好機と捉えたとみられている。この時、和田惟政は織田信長に上洛への協力要請を取り付けるために尾張に滞在しており、惟政には無断の移座であった。後日、惟政が激怒していることを知った覚慶は惟政に謝罪の書状を送っている, ただし、「鞍谷御所」は後世の創作で実際の鞍谷氏は、奥州斯波氏の嫡流の系統に属し、斯波一族でも宗家である武衛家に近い、高い格式を持った一族であるとする佐藤圭の説がある, 幕府行政の実務を担当していた奉行衆8名のうち最終的には6名が越前の義昭の下に下向した事が確認でき、対抗相手であった足利義栄が京都に入っても将軍の職務を行うのが困難となり、将軍宣下後も京都に入れなかった一因になったという, 矢島滞在当時より、足利義昭が上洛への協力を要請していることが判明している大名としては、, これまで、近衛家が足利義晴―義輝の外戚的存在としてこれを支持して彼らが京都を追われた時期においてもこれに随行し、九条家及び同系の二条家が足利義維―義栄を支持して石山本願寺とも連携する構図となっていたが、永禄の変後が義昭の従兄弟である近衛前久が従前通り近衛家の血を引く義昭の下向には同行せずに義栄を擁する三好三人衆と接近したことによって、義昭からは兄・義輝暗殺への前久の関与を疑わせ、九条稙通や二条晴良からは三好三人衆と義栄が近衛家支持に回ったと疑わせた。その結果、稙通や晴良は義昭を支援することになり、将軍家と摂関家の関係に一種のねじれが生じることになった, 義栄の死去日には異説もあり、実際の死亡時期が判然としないため、義昭が将軍宣下を受けた際に義栄の死去によって将軍職が空席の状態であったのか、義昭が義栄を廃した上での将軍宣下であったのかは定かではない, ただし義昭は御内書において「異論があれば天下に対し不忠になる」と将軍の貫禄を見せている, 将軍専制の確立と大名権力の抑制を意図する室町将軍とこれを抑えようとする管領ら有力大名の対立はこれまでもたびたび発生しており、義昭と信長に限定された話ではない。, ただし、現存する足利義昭文書を整理した久野雅司は、現時点で信玄の西上作戦以前に義昭から出されたとされる信長打倒の御内書の現物は1枚もみつかっていないと指摘している, この送付の理由は征夷大将軍である義昭と戦うには正義は信長にある事を敵味方から世間に宣伝する必要があったとされている, 信玄と義昭の関係は公式には元亀元年(1570年)4月に始まった。だが信玄は当時信長と同盟関係にあり、義昭との仲の発展はなかった。元亀3年5月13日付で義昭は信玄に「軍事行動を起こして、天下が平定するよう努力せよ」との御内書を与えており、これが信玄の軍事行動の大義名分となった, 実際に義昭の越前滞在時にも未だに将軍に就任していないにも関わらず前関白(当時)二条晴良や, 水野嶺「足利義昭の大名交渉と起請文」『戦国末期の足利将軍権力』吉川弘文館、2020年, 水野嶺「幕府儀礼にみる織田信長」(初出:『日本史研究』676号(2018年)/所収:水野嶺『戦国末期の足利将軍権力』(吉川弘文館、2020年), 水野嶺「義昭期幕府における織田信長」『戦国末期の足利将軍権力』(吉川弘文館、2020年), 久野雅司「足利義昭政の蜂起と〈天下静謐〉をめぐる抗争」『織田信長政権の権力構造』(戎光祥出版、2019年), 『現代語訳 信長公記』- 太田牛一 著、中川太古 訳 - 新人物文庫 - 189 - 194ページ, 木下聡「室町幕府奉公衆の成立と変遷」『室町幕府の外様衆と奉公衆』(同成社、2018年), 金子拓「久我晴通の生涯と室町幕府」(初出:『東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター通信』66(2014年)/所収:金子『織田信長権力論』(吉川弘文館、2015年), 水野嶺「足利義昭の栄典・諸免許の授与」『戦国末期の足利将軍権力』吉川弘文館、2020年, 川島佳弘「天正五年元吉合戦と香川氏の動向」『戦国・近世初期 西と東の地域社会』橋詰茂 編、岩田書院、2019年6月。, 『義昭興廃記』『豊臣秀吉譜』 畿内戦国軍記集 和泉選書39 1989年1月15日初版第1刷発行 青木晃、加美宏、藤川宗暢、松林靖明編 和泉書院発行。そもそもは、加賀市立図書館聖藩文庫蔵, 塵海研究会 宮中恩典と士族─維新前後の身分再編、京都官家士族の復位請願運動と華族取立運動─, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=足利義昭&oldid=81715523, 天下統一を実現した秀吉が幕府の創立を目論み、義昭を大名にする代わりに自分を養子としてくれるようにと望んだが、これを拒絶した、という逸話が伝わる, 兄・義輝の死後、幕臣に守られながら流浪したり、信長に追放されて諸国を流浪したりして諸大名を頼った経緯から、「貧乏公方」と噂されたといわれる。, 義昭は自らが将軍に就任した際、元号を「元亀」と改元するべく朝廷に奏請した。しかし信長はそれが将軍権威の復活につながること、, 打倒信長を目指して行動を続けていた義昭のもとに、信長を自害させたという密書が届けられた形跡がない。それどころか光秀周辺とのつながりを示すような材料も全く見えてこない。このことは毛利氏の場合も同様である。信長の死を知らせる光秀の使者が秀吉の陣営に迷い込んで捕らえられた不手際も、義昭と毛利氏が本能寺の変を全く予測できなかったことの証であり、義昭が黒幕として光秀を操っていたのなら、あらかじめ隠密の使者のルートが調えられていたに違いない。. 室町幕府15代目にして最後の将軍、足利義昭(よしあき)。織田信長を頼って将軍になったものの、仲違いから京を追放され、室町幕府は滅亡。「運がない」「傀儡(かいらい)」「貧乏公方」など言われたい放題ですが、私はこの方「わりと好き」です(推しキャラ)。 この意見書は義昭の様々な点を批判している。, 一、足利義輝様は宮中への参内を怠りがちでした。それゆえ、神の加護も無しにあのような不幸な最期を遂げられました。信長は日頃から義昭様に参内を怠りなく勤められるようにと申し上げておりましたのに、義昭様は近年怠りがちのようで信長は遺憾に思っております。, 一、諸国の大名に催促して、馬を献上させていることは聞こえが良くないので、再考なさったほうが良いでしょう。必要がある時には、信長に申し付けてくださればそのために奔走すると約束なさったではありませんか。このように信長に対して内密に事を進めるのは宜しくないと思います。, 一、義昭様は幕府の忠臣に対しては恩賞を与えず、身分の低い新参者に恩賞を与えておられます。このようなことでは忠誠心など不要となってしまいます。人聞こえも悪いでしょう。, 一、最近、信長と義昭様の関係が悪化したと噂になっております。将軍家の家宝類をよそへお移しになった事は京の内外に知れ渡っております。これでは信長が苦労して建造して差し上げた邸宅も無駄になってしまいます。とても残念なことです。, 一、賀茂神社の社領を没収して岩成友通にお与えになり、岩成に賀茂神社に対し経費の負担をするよう表向きは厳命なさり、裏では「それほど気にかけなくても良い」とお伝えになったそうですね。そもそも寺社領を召し上げるという行為は良いことではないと思っております。岩成がもし所領に困っているのであれば、私が都合のいいように取り計らったでしょうに。このように内密に行動されるのは良くないですね。, 一、信長に対して友好的な者にはどんなに下位の身分のものであっても不当な扱いをなさるそうで、彼らは迷惑しているそうです。そのような扱いをするのには、どういった理由があるのですか。, 一、何の落ち度も無いのに、全く恩賞を受けられない者達が信長に泣き言を言ってきます。私は以前にも彼らに対して恩賞をお与えになるように申し上げましたが、その内の一人にもお与えになっていないようですね。私の彼らに対する面目がありません。「彼ら」とは、観世国広(かんぜくにひろ)・古田可兵衛・上野豪為(うえのひでため)のことです。, 一、若狭国・安賀庄の代官の不行跡について、粟屋孫八郎が告訴しましたが、私も賛同して義昭様に進言いたしましたのに、音沙汰の無いまま今日に至っております。, 一、小泉が妻の家に預けてあった刀や、質に入れてあった脇差までも没収なされたようですね。彼が謀反を企てたりしたのなら別ですが、彼は喧嘩で死んだだけです。この措置は法規的に処理されておらず、人々は義昭様を欲深い将軍だと考えるでしょう。, 一、「元亀」の元号は不吉なので改元したほうがいいと、民意を参考に義昭様に意見を申し上げました。宮中からも催促があったようですが、改元のためのほんの少しの費用も義昭様が出費なされないものですから今も滞ったままです。, 一、烏丸光康を懲戒された件ですが、その息子・光宣に対する処置は妥当と感じるものの、信長は光康は赦免なさったほうが良いと申し上げたはずです。どなたか存じ上げませんが、密使を光康へ遣わして金銀を受け取って再び出仕を許されたそうです。嘆かわしいことです。今や公家は彼らのような者が普通なのですから、このような処置はよろしくないと思います。, 一、諸国から金銀を集めているにも関わらず宮中や幕府のためにお役立てにならないのは何故でしょうか。, 一、明智光秀が徴収した金銀をその地の代官に預けておいたところ、その土地は延暦寺領だと言って差し押さえになったようですね。そのような行いは不当です。, 一、昨年の夏、兵糧庫の米を売って金銀に変えられたと聞きました。将軍が商売をなさるなど前代未聞、聞いた事がありません。兵糧庫に兵糧がある状態こそ、世間の聞こえも良いのです。義昭様のやり方には驚いてしまいました。, 一、幕府に仕えている武将たちは戦など眼中に無く、もっぱら金銀を蓄えているようで、これは浪人になった場合への対策と思われます。義昭様もいざとなれば御所から逃げ出してしまうものと見受けられます。そのために金銀を蓄えていらっしゃるのでしょう。「上に立つものは自らの行動を慎む」という教えを守ることは義昭様にとっても簡単なことでしょう。, 一、世間一般の人々は「将軍は欲深いから人がなんと言おうとも気にしない」と口々に言っております。ですから、しがない農民でさえ義昭様を「悪御所」と呼んでいるそうです。かつて足利義教様がそう呼ばれたように。何故下々の者達がこのように陰口を叩くのか、今こそよくお考えになったほうが良いと思います。, これによって義昭と信長の対立は抜き差しならないものになり、義昭は挙兵。東では武田信玄が上洛を開始し[注釈 24]、12月22日の三方ヶ原の戦いで信長の同盟者である徳川家康の軍勢を破るなどすると、信長は窮地に陥り、義昭は寵臣・山岡景友(六角義賢の重臣で幕府奉公衆でもある)を山城半国守護に任命する。だがその後、朝倉義景が12月3日に越前に撤退してしまったため、義昭は翌年2月に信玄から遺憾の意を示されて義景に重ねて出兵するように求めている(『古証記』)[32]。義昭も義景、あるいは朝倉一族に対して5,000から6,000の兵を京都郊外の岩倉の山本に出兵するように命じている(『牧田茂兵衛氏所蔵文書』天正元年2月29日付義昭文書)[3]。, 元亀4年(1573年)正月、信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭は信じず、これを一蹴した。義昭は近江の今堅田城と石山城に幕府の軍勢を入れ、はっきりと反信長の旗を揚げた。しかし攻撃を受けると数日で両城は陥落している。その頃、東では信玄の病状が悪化したため、武田軍は4月に本国への撤退を始める。信玄は4月12日には死去した。, 信長は京に入り知恩院に陣を張った。幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り、信長についた。しかし義昭は(おそらく信玄の死を知らなかったため)、洛中の居城である烏丸中御門第にこもり、抵抗を続けた。信長は再度和睦を要請したが、義昭は信用せずこれを拒否した。信長は威嚇として幕臣や義昭の支持者が住居する上京全域を焼き討ちにより焦土化し、ついに烏丸中御門第を包囲して義昭に圧力をかけた。さらに信長はふたたび朝廷に工作した末、4月5日に勅命による講和が成立した。信長は一連の事態を上野秀政ら自分に敵意を持つ義昭側近が義昭を唆したものとみており、秀政らも信長への謝罪の意思を示したことから、兵を引き上げた。, しかし7月3日、義昭は講和を破棄し、烏丸中御門第を三淵藤英・伊勢貞興らの他に日野輝資・高倉永相などの武家昵近公家衆に預けた上で、南山城の要害・槇島城(山城国の守護所)に移り挙兵した。槇島城は宇治川・巨椋池水系の島地に築かれた要害であり、義昭の近臣・真木島昭光の居城でもあったが、烏丸中御門第で最後まで籠っていた三淵藤英も10日に降伏し、槇島城も7万の軍勢により包囲された。7月18日に織田軍が攻撃を開始すると槇島城の施設がほとんど破壊されたため、家臣にうながされ、しぶしぶ降伏した。, 信長は他の有力戦国大名の手前、足利将軍家追放の悪名を避けるため、義昭の息子である義尋を足利将軍家の後継者として立てるとの約束で義昭と交渉のうえ自身の手元に置いた(人質の意味もあった)が、後に信長の憂慮が去ると反故にされている。, 信長は義昭の京都追放を実行し、足利将軍家の山城及び丹波・近江・若狭ほかの御料所を自領とした。続いて7月28日に天正への改元を行う。8月には朝倉氏、9月には浅井氏も滅亡し、信長包囲網は瓦解した。一方で信長は、これまで幕府の政所や侍所が行ってきた業務を自己の京都所司代である村井貞勝に行わせ、続く天正2年(1574年)には塙直政を山城・大和の守護に任じ、畿内の支配を固めた。それまで信長は義昭を擁することで、間接的に天下人としての役割を担っていたが、義昭追放後は信長一人が天下人としての地位を保ち続けた[33]。, ただし、『公卿補任』には、関白・豊臣秀吉と共に御所へ参内し、准三后となり正式に征夷大将軍を辞する天正16年1月13日(1588年2月9日)まで義昭が征夷大将軍であったと正式に記録されている。200年余り続いた室町幕府の中で、征夷大将軍が足利家の家職であり「(足利家と同じ清和源氏であったとしても)他家の人間が征夷大将軍に就任する事はありえない」という風潮が確立されており、そのため、信長も義昭に代わる征夷大将軍の地位を求めず、朝廷も積極的に義昭の解任の動きを見せなかったともいわれる[34]。, また、義昭が京都から追放されたとは言っても、かつて10代将軍であった足利義稙が明応の政変で将軍職を解任された後も大内義興らによって引き続き将軍として支持を受けて後に義興に奉じられて上洛して将軍職に復帰したように、義昭が京都に復帰する可能性も当時は考えられていた。実際に義昭は征夷大将軍であり続けたと公式記録(『公卿補任』)には記されている。また義昭も将軍職としての政務は続け、伊勢氏・高氏・一色氏・上野氏・細川氏・大館氏・飯尾氏・松田氏・大草氏などの幕府の中枢を構成した奉公衆や奉行衆を伴い、近臣や大名を室町幕府の役職に任命するなどの活動を行っていた[注釈 25]。そのため、近畿周辺の信長勢力圏以外(関東・北陸・中国・九州・奥州)では、追放前と同程度の権威を保ち続け、それらの地域の大名からの献金も期待できた。また、京都五山の住持任命権も足利将軍家に存在したため、その任命による礼金収入は存在していた。, その一方で、義昭が京都にいた時期の奉公衆のうち、追放後も同行し続けたのは2割に過ぎないとする研究もあり、その原因として義昭の在京中から満足に所領が与えられず(与えることができず)に困窮したり義昭が一部の側近ばかりを重用したりすることに対して信長に救済を訴え出る奉公衆がいたことから、義昭の奉公衆に対する扱いへの不満が幕府を見限って信長に従わせる原因になったと考えられている[35]。所領安堵と引換に信長に従った奉公衆や奉行衆などもおり、その中には最後の政所執事である伊勢貞興、侍所開闔を務めた経験を持つ松田頼隆、他に石谷頼辰・小笠原秀清などがいた。ただし、そのほとんどがこれまでの幕府の職務から離れ、細川藤孝や明智光秀などの麾下に置かれた。これは幕臣たち所領の多くが彼らの支配下に置かれた事や個人的なつながりに由来すると考えられ、京都の統治を担当した村井貞勝の麾下に置かれた名のある幕臣はおらず、旧来の統治のノウハウが室町幕府から織田政権に継承されることはなかった。, こうした一連の流れは、室町幕府の幕臣達は信長によって荘園制など中世的な秩序が解体されて将軍・幕府の権威を必要としない支配体制を構築されつつある中で、義昭の再上洛・復権に賭けるか、現実的な京都の支配者である信長に従って所領安堵を図るかの判断に分かれたとみられる。その一方で、信長側からみても幕臣が義昭に従う者と信長に従う者に二分された結果、政所や侍所など幕府機構の維持に必要な人材が不足して機能停止の状態に陥ったため、これらの機構に依拠しない支配体制を構築する方向性に進み、政所や侍所の職員だった幕臣も信長の下で新たな役割を与えられることで、京都における室町幕府の機構は完全に解体されることになった[20]。, また、これまでの室町将軍の動座・追放の際にはそれまで将軍を支持して「昵近」関係にあった公家が随伴するのが恒例で、彼らを仲介して朝廷との関係が維持され続けていた[注釈 26]。ところが、今回の義昭追放においては烏丸中御門第で信長に抵抗した日野輝資や高倉永相のような公家はいたものの、彼らは最終的には信長の説得に応じ、義昭に従って京都を離れた公家は久我晴通・通俊父子のみ[注釈 27]で、この父子も義昭が紀伊に滞在中の天正3年(1575年)には共に病死しているため、義昭に従った公家は皆無になった。これは義昭の将軍就任以降の5年間に元亀から新元号への改元問題を巡る朝廷との対立や近衛前久の出奔や烏丸邸の襲撃などによる伝統的に足利将軍家と「昵近」関係にあった公家との関係悪化があり、また、信長による公家への所領安堵があったとみられている。そして朝廷では追放後の義昭を従来通りの将軍の別称である「公方」「武家」と呼んで引き続き将軍としての地位を認め、新たに天下人となった信長に対してその呼称を用いることはなかったものの、義昭側に仲介となる公家がいなかったこともあり、両者の間に関係が持たれる事は無かった[19][34]。, 京都からの追放後、義昭はいったん枇杷荘(現:京都府城陽市)に退いたが、顕如らの仲介もあり、妹婿である三好義継の拠る河内若江城へ移った。護衛には羽柴秀吉があたったという。しかし信長と義継の関係も悪化したため、11月5日に和泉の堺に移った。堺に移ると信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した。この説得には毛利輝元の家臣である安国寺恵瓊、林就長もあたっている[39]。しかし義昭が信長からの人質提出を求めるなどしたため交渉は決裂している。, 翌・天正2年(1574年)には紀伊国の興国寺に移り、ついで田辺の泊城に移った。紀伊は室町幕府管領畠山氏の勢力がまだまだ残る国であり、特に畠山高政の重臣であった湯川直春の勢力は強大であった。直春の父・湯川直光は紀伊出身でありながら河内守護代をも務めたことがある実力者である。, 天正3年(1575年)、信長包囲網を再度形成するため、武田勝頼、北条氏政、上杉謙信の三者に対して和睦をするよう呼びかけた(甲相越三和)。これに対する上杉家重臣・直江景綱と河田長親の回答は、甲州(武田)との和睦はやぶさかではないが相州(北条)が加わるのは承服しかねるというものであった(『上越市史』)[注釈 28]。北条・上杉間の不和により甲相越三和は実現しなかったものの、武田と上杉の和睦は10月中に成立しており、長篠の戦いの敗戦によって窮地に立たされていた勝頼は外交状況の改善に成功した。11月、義昭がかねてより望んでいた右近衛大将に信長が任官してしまう。, 天正4年(1576年)、義昭は西国の毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国の鞆に移った。鞆はかつて足利尊氏が光厳上皇より新田義貞追討の院宣を受けたという、足利家にとっての由緒がある場所であった。また第10代将軍・足利義稙が大内氏の支援のもと、京都復帰を果たしたという故事もある足利家にとって吉兆の地でもあった。鞆での生活は、備中国の御料所からの年貢の他、足利将軍の専権事項であった五山住持の任免権を行使して礼銭を獲得できたこと、日明貿易を通して足利将軍家と関係の深かった宗氏や島津氏からの支援もあり財政的には困難な状態ではなかったと言われている。一方で、征夷大将軍として一定の格式を維持し、更に対信長の外交工作を行っていく以上、その費用も決して少なくはなく、また恒常的に保証された収入が少ない以上、その財政はかなり困難であったとする見方もあり、天正年間後期には真木嶋昭光・一色昭孝(唐橋在通)クラスの重臣ですら吉見氏や山内首藤氏など毛利氏麾下の国衆への「預置」(一時的に客将として与えて面倒をみさせる)の措置を取っている[34]。, とはいえ、畿内近国以外では足利将軍家支持の武家もまだまだ多かった。義昭はこの地から京都への帰還[40]や信長追討を目指し、全国の大名に御内書を下している。6月12日には、武田、北条、上杉の三者に甲相越三和を命じる御内書を再度下した。前年とは違い、この時は毛利輝元の副状付きであった。また、毛利氏が上洛に踏み切らないのは、北九州で大友宗麟の侵攻を受けているからだと考えた義昭は島津氏や龍造寺氏に大友氏討伐を命じる御内書を下した。島津義久はこれを大友領侵攻の大義名分として北上し、日向国の伊東義祐を旧領に復帰させるために南下しようとしていた大友宗麟と激突、天正6年(1578年)の耳川の戦いの一因になったとする説もある[41]。